淡いさん

ある教授の最後の記念講演があった。

私は先生にずっと聞きたいことがあった。

 

キャリアデザインという大学1・2年の必修の講義がある。

自分の好きなことや進路、何をしたいのかとか、

いろんな先生やゲストスピーカーの話を聞く講義。

 

その講義をメインでまわしていたのが先生だった。

 

ある日の講義で、

ステージの前に出て、

自分の夢、自分がどんな人間であるか、

自分が何をしたいのかを発表する日があった。

 

全員ではなく、発表したいひとが発表する。

発表したいひとは少ないので、先生が学籍番号で呼ぶ。

 

私は、その講義の内容に

歯を食いしばるほど、いやなきもちになった。

 

どうして発表しなければならないのかがわからなかったから。

どうして自分のことをさらけだす必要があるのかがわからなかった。

ステージの前でマイクを使って。

同期の前で発表をする。

きもちがわるかった。とにかくわからなかった。

 

わからないから、手を挙げて質問しようと思った。

 

でも、当時の小心者なわたしじは、

発表するひとがいるなかで、聞くことができなかった。

 

それを今日、聞いてやろうと思っていた。

 

 

先生は今日、

淡いさ・間(ま) の話をした。

 

京都などにある町家。

町家には隣の家と共有する部分がある。

玄関前の屋根、仏間、階段など。

交わる部分があるけれど、ひとつのものではない。

自分の土地のことは自分のすきなようにしていいと言わせない。

それは共有地であるから。コモンズだから。

こんな言葉が何度も出てきた。

 

また良寛さんと貞心尼との関係も淡いさがあったという話。

決してセクシャルな関係で恋をしていたのではなく、

詩を詠み、書を書いたり、絵を書いたり、

お茶を飲んだりをたのしむ関係。

この関係の淡いさ。

 

なんとなく、この話を聞いて、

ずっと考えてもわからなかった質問をしなくてもいいかなと思えてきた。

 

それは、わたしが淡いさに気づけていなかったから。

 

 

私は先生を先生として見ていた、

友達を友達として見ていた。

 

先生は先生であるまえにひとりのにんげんなのに。

友達は友達であるまえにひとりのにんげんなのに。

 

私は学生であるまえに1ぴきのにんげんなのに。

 

わたしが先生の言葉を真に受けて、

くそまじめに先生の話を聞いて、

先生がコントロールする講義に従わなければならないと思い込んでいたのだ。

 

今の私は淡いさに気づいた。

 

いい意味で

ひとはひと、

じぶんはじぶんと思える。

 

決して切り離してしまわないけど、

別々のものであるということ。

 

淡いのはなしでわかった気がする。

 

だからこそ、

となりのひととの淡い境界線、

淡く混じりあう空気がおもしろいのだとおもった。

 

先生はその淡いさをおもしろがってほしかったのかな。

 

 

やっと、そう思えた。

 

いつだって、小さくて、

それでも堂々と、ビシっといつも決まっていて、

ひゃっひゃっひゃと笑う、ダンディでワイルドなひげじいさんがだいすきだった。

 

廊下であいさつをすると、必ず返してくれる。

 

マイクを持つのはいつも胸の高さ。

 

 

70歳、おめでとう。

卒業、おめでとう。

 

 

あなたのきれいな目、

ちいさくて大きな大きなたたずまい、

にじみ出る人柄から多くのことを学びました。

 

ありがとう。

体、気をつけて。

たばこ、すきなんですよね。

まあ、だめと言われてもすきなように吸うんでしょう。

 

わたしはこれから、

淡いさんをたのしんで生きていける。

 

 

先生が「淡いさ」と言ったのを、

私は「淡いさん」とずっと聞き間違えていた。

 

それも、おもしろい。

淡いさんとたのしくやっていくよ。

 

 

写真はニュージーランドで船から撮った淡いさん

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