はるるるる

川のながれのように。川をながれるように。

響く

ソツロンの資料に出てきた

松原・下筌(しもうけ)ダム建設に対する反対運動

通称「蜂の巣城紛争」を知り、衝撃を受けた。

 

 

 

おおまかにこの出来事のことを書くと、

 

蜂の巣城紛争は1958年(昭和33年)建設省九州地方建設局による松原・下筌ダムの実施計画に対して山地地主であった室原知幸が中心に起こした反対運動。ダムの建設予定地に「蜂の巣城」と呼ばれる大きな要塞をつくり、そこを反対運動の拠点として7年間抵抗運動を続けた。室原氏は法廷闘争を約70回にわたり行った。事業差し止めの行政訴訟は室原らの敗訴となり、即時控訴した。また、反対派が分裂、分裂派は代替用地の取得と早期生活再建を進めた。ダム建設絶対反対の町議会決議も条件付賛成に転じ、室原氏は孤立無援の戦いを強いられた。こうした中、蜂の巣城が落城。控訴審でも敗訴判決が下され、行政訴訟の敗訴が確定した。室原は懲りずに1964年7月には第2の蜂の巣城を建設する。第2の蜂の巣城も代執行により落城。そしてダム本体工事も開始されるようになった。彼は1970年(昭和45年)6月29日に死去。その後建設省と室原家は和解。そして13年をかけて下筌・松原両ダムは1973年に完成した。

 

室原氏の行った反対運動(代執行の妨害)はユニークなものが多く、川にたくさんのアヒルを放し、牛や馬までも抗議活動に参加させたり、糞尿をばら撒いたり、蜂の巣城の あちこちに水道管を張り巡らせたり、周囲の木に支援者の名札をくくりつけ(闘争記念樹)対抗していった。闘争記念樹については現在の公共事業の反対運動に みられる「立木トラスト」の原点と言われている。

 

室原氏は頑なな「ダム建設反対」論者であった訳ではなく、いかに地元を守り活性化させて行くかを最優先に考えていた。故にダム建設後の町の 在り方を反対運動の最中にも考えていた。建設省幹部との交渉・交流の中で室原は周辺整備についての意見を度々行い、地域住民が利用しやすい道路整備、湖水 との景観に配慮した橋梁・トンネルの建設、観光資源活用のための遊覧船就航等を要望し、それらは全て建設省によって取り入れられている。水源地域の日田大山町はダム建設を機に特産品の育成を図るべくウメ栽培を始め、これが後の「一村一品運動」となり、日田市と合併した後も自立した産業育成に努めている。ダム湖は1988年(昭和63年)に「蜂の巣湖」と名付けられたが、これは蜂の巣城紛争に因んでおり公共事業の在り方を大きく変えたこの運動を忘れないという思いが込められている。また、下筌ダムの銘板にある「下筌ダム」の文字は室原氏が書いた「下筌ダム反対」の看板を建設省が勝手に写したものである。

 

公共事業に対して命がけで運動してきた室原の次の言葉がある。

公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」

 

おどろいた。おののいた。

 

流血沙汰になって、公務執行妨害で逮捕されたり、

糞尿をばらまいたり、

 

過激なことをされてきたんやなあ。

 

でもそれだけではないってこと。

 

 

残した言葉の重み。

 

公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」

 

理に叶い、ひとの役に立つものでなければならない。

法に叶い、公正な事業でなければならない、

 

それだけでなく、

 

そこに住むひと、いきものの情に叶わなければならない。

 

 

どれが欠けても、公共事業はみんなのものにならない。

 

そんなふうに言われた気がした。

 

体を張って、命がけで、

自分の守りたいものを自分の手で守る。

 

手段はみんなから受け入れられ難いものかもしれんけど、

 

なんか、ぞわりとした。

 

 

 

わたしはわたしの手で、

わたしのやり方で、

やってやろうじゃないか。

 

 

 (参考:蜂の巣城紛争HP–I‚Ì‘ƒé•´‘ˆ下筌ダム - Wikipedia)