春も木から落ちる

2016.05.15に書いた文章をみつけた。

 

 

 

「春も木から落ちる」

見事に社会という木から落ちくれました。今まで木登りはしてきたけれど、これほどしがみつこうとしなかった木はない。スーツを着て、パンプスで歩くアスファルトの上。長い髪はひとつに結いまとめる。心ばかしの化粧をして、家を出る毎日。

オフィスには静かな空気が流れる。くしゃみひとつ思い切りできない。いつもわたしは飛び出したくなってトイレに逃げた。助けを求めた。助けて、助けて、ここはどこ?どうして私はここにいるんだ。こんなところで死にたくない。そう腹の中で叫びながら、面白くない顔をしてトイレから出た。それでも会社の人は面白くない顔をした私のことを気遣ってくださり、やさしい声をかけてくださった。それもとてもつらかった。だいきらいになってほしかった。つかえないやつだと見下し馬鹿にしてほしかった。見放してほしかった。ただただ、惨めだった。

 業務内容は下水処理場への架電、電話対応、営業の方がいただいてきた名刺の情報を共有アプリに登録してゆくこと。ひたすらパソコンをみつめる。電話のスクリプトを読む。どうして、こんなにも理解できず、頭に入らないのだろう。体も頭も心も固まる。そうして、石になる日々が続いた。理解できてないのに、架電しなくてはいけないということで、何度もへまをする。先輩社員は困り顔で私のところに指導にきて、私に問いかける。私は答えられない。彼女はもっと困り顔になる。私は、もう、できませんと言いたくなる。じっとしてやりすごす。ごめんなさい。なにもできなくて。正直なところ、これらの業務をできるようになりたいと1ミリも思ったことがない。それでも、少しうまくいけばうれしいと思えるほど単純な私はいた。しかし、この日々が夏まで、来年まで、続くと思うと、私は死んでしまいたいと思うようになった。がまんができなかった。今の自分のままこの先いれば、自分が自分のことを嫌いになってしまう。「自分、死ね!」その言葉はなんの抵抗もなく、口にできた。

 死にたい、死にたい、死にたい、と思えば思うほど、生きたかった。自分がいきいきする場所で自分がもっと自分のことを愛したかった。自分が自分のことを見放してしまうのがいやだった。だって、私の人生だから。自分で選ぶことでしか、自分の人生は変えられない。お金がない、経験がない、考え方も甘い、それでも。それが今の自分で、、。

 

 

 

それだけを書いて、

この文章は終わっていた。

 

 

わたしは、

 

あのころがあるから、

 

いまのわたしはいるんだねって

 

わらえるようになったよ。

 

ぜんぶ、

ぜんぶが、

ひつようなことだったんだ。

 

たくさんの出会ってくださったかたへ、

 

 

ありがとう。ありがとう。ありがとう。

 

 

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